2021.6.11. 温故知新シリーズ 第4回 『日本の古典映画にみる今と昔―黒澤明監督『羅生門』(1950)を通して見る温故知新』
内容紹介
昨年から始まったKIPの新シリーズである「温故知新」の第四回目が行われた。今回は、1950年に黒澤明監督が、芥川龍之介の「藪の中」と「羅生門」を原作として制作した映画「羅生門」を各自で事前に鑑賞し、映画の内容や時代背景、芸術的視点、現代につながる論点について意見を交わし合った。
温故知新は過去にあったことを調べ、学び、そこから得られた知見を生かして新たな知識を得ることである。これを目的に昨年度から始まったこの活動において、今回は映画を1つの手段として用いて行った。映画鑑賞でなく、時代考察を踏まえて、現代に生かせる知識などについて語っていくものとして扱う。その上で美術効果などにも触れ、文学・アート・時代・社会観察を行った。
まず、各々が映画を鑑賞した率直な感想を述べていった。映画の内容については、自分自身と重なる部分があって恐怖を感じた、人間は誰しも自分を正当化して生きている、といった現代を生きる私たちにも重なる部分から、原作となった「藪の中」と「羅生門」との比較についても語られた。原作となった2作品に比べ、映画の方が希望を感じられるものであったという意見が多く出た。具体的には、芥川龍之介の「羅生門」では、下人が老婆の引き剥ぎをして去っていき物語が終わっていく一方、黒澤明の「羅生門」のラストシーンでは、赤ん坊が下人に着物を奪われるものの最終的にそばにいた木こりによって連れ帰って育てると抱きかかえられ、そこで泣き止む場面が描かれている。黒澤明が、わざわざ老婆から赤ん坊へとキャラクターを変えたのはなぜなのだろうか、という論点があがった。
次に、この点も踏まえつつ、映画が製作された時代背景について考察していった。この映画が公開されたのは1950年、つまり製作されたのは終戦直後ということになる。戦争で日本が敗れ、希望も見えにくいなかで、特に老婆と対比すると明確になる赤ん坊という「生」や「命」を感じさせるキャラクターを最後に持ち出すことで、当時の日本の人々に明るい未来を想像させたかったのではないか、という声も出た。また、赤ん坊の着物を剥ぎ取った下人に描かれる人間のエゴイズムや、真実は「藪の中」であり何が真実なのかは確かめ難いというメッセージに、戦前の日本への批判や反省がこめられており、ラストシーンで赤ん坊を連れ帰って育てると決意した木こりという新たな人物に、周りに流されずに自分が善いと思うことを行うべきだという戦後の日本を生きる人々への期待をこめているのではないか、という考えが出された。
さらに、芸術的な視点からは、映像については太陽に向かってレンズを向けており光の使い方が独特だという指摘や、音楽を流す/流さないことが真実ではないか/真実であるかを示しているのではないか、という推測などが述べられ、まさに十人十色のものの見方があるということを再認識した。 最後に、現代につながる論点として、映画が時代を超えても私たちの心に訴えかけるメッセージについて話し合った。そこで、個人的に印象に強く残ったのは、人間の虚栄心との向き合い方だ。この映画の登場人物は誰しも自分を良く見せようと嘘をついており、悪人に見えることが多い。私自身、高校生のときにこの映画を鑑賞したことがあるが、登場人物たちになんて酷い人間たちだと嫌悪感を抱いた記憶がある。しかし、数年たって再鑑賞した今、登場人物たちに嫌悪感をあまり抱かず、むしろ自分含め誰しも持つ人間の醜い部分が前面に描かれているだけではないかと感じた。人間は無意識に自分を良く見せようと嘘をついてしまうことがある。そういった人間の汚いと言われる部分を認め、虚栄心は悪だという偽善を捨てても良いのではないかと考え直すことで、自分自身の弱さにも他人の弱さにも寛容になれ、生きやすくなるのかもしれないと思う。
(東京大学教養学部文科二類2年 王 詩帆)