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2020.11.28. 温故知新シリーズ 第2回 『臓器移植と温故知新―葬式に見る日本人の死生観』

内容紹介

温故知新シリーズ第2回では、東大医学部6年生湯山さんの「日本ではなぜ臓器移植件数が少ないのか」という素朴な疑問を出発点に、日本人の死生観や宗教観、制度設計といった社会的・歴史的な側面に焦点を当て、普段あまり触れることのない「死」と「生」についての議論も交わしました。

日本は世界屈指の医療技術を有しているにも関わらず、臓器移植の件数が、スペイン(世界第1位)の約50分の1(年間100例程度)だそうです。その背景には臓器提供のデフォルト設定の他に、死生観の違いが大きく関わっているのではないかという点から、お葬式・告別式などにおける日本と海外の違いも踏まえて、参加者一同で意見を出し合って話していきました。

日本では、死後も肉体に魂が宿り続けるという考えがあるようですが、その背景には、大陸から伝来した仏教・儒教に日本古来の宗教が統合された、我が国の宗教観が関わっているのかもしれません。葬式を例にとってみると、告別式の後には通常収骨が行われるところや、死後も魂が宿る遺体を傷つけたくないという思想が、このような慣習に繋がっていると捉えることもできなくはないように思われます。日本固有の宗教観や死生観が、臓器移植の阻害要因になりうるという考え方は非常に示唆的で、なお検討の余地があると思いました。

一方、西洋では、臓器提供を支持する声が日本よりも強いと言われています。「肉体の復活」というキリスト教の概念にも見られるように、身体と魂は完全に分離されているという価値観が、臓器という「生きたパーツ」を他者に提供しても良いという見解に繋がっているのかもしれません。こうした心身二元論の考え方は、西洋で火葬よりも土葬が伝統的に好まれる傾向にあることと関わりがあるのではないかという指摘もありました。また実際、西洋の一部の国ではオプトアウト(本人が拒否しない限り臓器移植に同意したものと見なされる)が採用されているところ、制度設計を行う上で、宗教的・歴史的な価値観といった社会面での影響が色濃く反映される場合もあるのではないかと私は考えました。シリーズ「温故知新」には、日本に古くからある慣習などについて、現在綿々と続いている理由の糸口を考え、未来に向けてつなげていくという側面も含まれています。ただ今回、そのような歴史的見地というよりもむしろ、葬式にも垣間見られるような死生観・宗教観を中心に話が進んだのも、一参加者として非常に興味深かったです。

以上の話を踏まえ、世俗化を始め社会の価値観が変化する中で、「今後日本で臓器移植を促進していくべきか」というテーマで自由討論を行いました。討論は、自分自身が脳死状態になった場合、ドナーになっても良いか、という問題提起から始まりました。金銭給付やドナーの実名公表といった臓器移植のインセンティブが増えれば進んでドナーになっても良いとの意見があった一方、臓器提供が促進されることで命の商品化が進むという倫理的な問題や、臓器移植の実態が周知されていない状態で、ドナーとなる実益の乏しさについて懸念する声が上がりました。

そして、討論の後半では、上記テーマと関連して、ドナーになってまで人の命を救うことに果たして意味があるのか、という点を中心に意見を交わしました。レシピエントの蘇生可能性を数値化するなど、客観的な基準が設定されれば臓器提供の効用は増すのではという指摘があった一方、制度設計で全てを解決すれば、個人が求める生き方が蔑ろにされる危険性があるとの反対意見も示されました。そこで、結局は自身の生き方に沿った意思決定を尊重すべきであり、その前提として一人一人が臓器移植やその背後にある死生観について、個人的な見解を確立することが必要であるとの話になりました。

討論の最後には、日本で「死」や「生」に対して議論が進まない要因について議論しました。参加者からは、日本では「死」というものに対するネガティブな感情が何かと強く、話のタネになりにくいことが原因なのではないかという意見が出され、こうした概念について疑問を発する機会をより設けていく必要があるということになりました。生活に潜む小さな疑問を討論によってアウトプットし、同時に自分事として考えるという場が、温故知新では設けられていると実感しています。

今日の日本社会では、ハウツー本やその類の動画が人気を博し、効率化に直結しないコンテンツは鳴りを潜めているという話もあります。そのような時代だからこそ、身近な問いを通して自国の歴史や思想を深く学び、積極的に自問自答・対外発信していこうと思いました。そして、このような姿勢を保ち続けることが、「知日派」の国際人となる上で必要なのではないかと考えています。

(東京大学法学部3年 川上 晴紀)

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